木曜日, 5月 28, 2015

Apple TVはHomeKitのハブ?

WWDCでは予想通りApple Watchのネーティブアプリ開発が可能になるSDKを公開予定だと事前にコメントが出たようだが、同じようにIoTのキーデバイスとなるApple TV用のTVKitも公開されるだろう。

スマートテレビを未だにGoogle検索やWebサイトの閲覧の道具と捉えているところもあるようだが、今どきIT機器が一切ないことの方が少ないのだからそんなものなくっても構わないどうでも良い機能。だからこそ今までAppleはそんな機能をApple TVに搭載するようなバカなことはしてこなかった。

何年も大きな変更のなかったApple TVもいよいよ新製品が出るとの噂であるが、キーになるのはTVKitと呼ばれるもの。Apple TVで動くOSもiOSとなり今まで一般の開発者にもブラックボックスであったApple TV上にApp Storeが用意され自分の好きなアプリを加えることが出来るようになるだろう。

一番目立つ部分はゲームアプリや新たなストリーミングサービスだが、実際に重要な意味を持ってくるのはApple TVがHomeKitでコントロール可能になる家電製品のハブになることだろう。今までのスマート家電はネットワーク越しで操作可能と言ってもそれぞれ単独でコントロールするアプリに頼る必要があったし、そのための標準となるデジタルデバイスはなかったに等しい(スマホがリモコンとなっていたかも知れないが、あくまでスマートなリモコンレベル)状態だった。

そんな中で登場するApple TVにHomeKitをベースとしたコントロールアプリがインストール可能になればテレビの画面から設定を選ぶだけで家の中にあるスマート家電を自在にコントロール可能になるだろう。

結論:家の中にあり常に通電されていてワイヤレスでネットワークに接続可能なデバイスが家庭内のIoTのキーになるのである。

月曜日, 5月 25, 2015

なぜAndroidだったのか?

Windowsが日本では広まらなかったのはライセンス料の問題よりもあまりにもWindows CEの出来が悪くてガラケーから乗り換えるわけにいかなかったから。そして、方向性が定まらずWindows Mobileの登場が遅れた事。各メーカーAndroidへと流れたのはAndroidしか選択肢がなかっただけの話である。ライセンスフリー、自由に変更して良いと言う悪魔の囁きもiOS端末に対向出来るOSを自力で作る能力の無かったメーカーにとってさぞや心地よかっただろう。渡りに船というよりもその時には他に船がなかったのだが、ありあれよあれよと言う間に(日本は別で一周以上遅れた)梅雨時のカビのように…クソ端末が溢れる結果になってしまった。

国内だけに目を向ければ更なる糞の集まりだったわけだが、フィーチャーフォンに勝てる筈がないと高を括っていたiPhoneがスマートフォンの代名詞となりはじめた時に評判の良くなかったKCP+をばっさり切り捨てたauがAndroidに名乗りを上げたところ皆で渡れば怖くないと製品の作り込みもそこそこに取り敢えず出してしまったAndroid元年。SoftBank以外はiPhoneを取り扱っていなかったのだから詐欺まがいの販売攻勢で…

その揚げ句にOSのアップデートさえままならない変な手の入ったOS的には世代遅れの製品ばかりを出してしまい結果的に一通り出たところで全キャリアがiPhoneを販売出来るようになった途端にお先真っ暗に。

結論:皆で渡れば怖くはないが生き残れる保証はどこにもないことを実証したのである。

Android Wearに必要なもの

Appleの発表を受けApple Watchが登場する前に出さなければとAndroid陣営では専用のOSが準備される前から発売が開始されたスマートウォッチ。Samsungのように出したは良いが数時間しか持たないからとボロクソに叩かれ出たそばから直ぐに次のモデルを出さざるを得なくなるようなところも現れ、結果的に全ての出荷数を足してもApple Watchの初日の予約数に負ける結果に。Apple Watch発表以前から製品を出しているSONYなども既に数代を重ねているがGoogle離れを模索するSamsungなどはAndroid Wearだから売れないと思い違いをしたのか今はスマホ用としては見放されたTizen版も出す始末だ。

さて、話を戻そう。Android Wearを普及させるために必要なことは使用するOSだけではなくハードウェアの仕様も厳密にコントロールすることである。それでは自由が謳い文句のAndroid文化が死んでしまうと嘆く人がいるかもしれないが、そのせいでどれだけ多くの一般ユーザが酷い目に遭ってきたかをまず考えてもらいたい。

ハード仕様をメーカーに任せたこととメーカーのハード開発に要する時間を無視したOSのバージョンアップが招いたのがAndroidのフラグメンテーション。玉数が出せず相手にされなかった国内のメーカーなど製品を出した段階で既に次期OSがリリースされるのも日常茶飯事。バージョンアップなどはなから考えていないから平気で半年も経てば周回遅れバージョン対応の新製品おリリース。これくらいユーザをバカにしたことはないのだがスマートウォッチも使い勝手を無視してスクリーンを丸くする始末。どう考えても製品の価値を下げてコモディティ化を加速させたのはGoogleとハードウェアメーカーなのである。

Androidは限りなく縛りを少なくして敷居を低くしたためにあっという間に多くのベンダーが名乗りを上げAppleを駆逐する勢いで製品の出荷数は伸びてきたが同じOSの範疇に括られながら各メーカーごとで微妙な差違があるために継続してAndroidを使い続けるメリットを十分に醸成出来なかったのは間違いのない事実。製造メーカーは違えどNexusシリーズのようにGoogleが仕様を決めて作られた端末以外でどれだけAndroid端末を使い続ける恩恵に浴することが出来たか

Android Wearを成功させるために必要なもの
その1:ハードウェア仕様の厳格なコントロール
その2:アプリストアの厳格なコントロール
その3:旧モデルを置き去りにしないOSのバージョンアップ
その4:これらをそのままAndroidスマホに摘要する

結論:今までやってきたやり方を全面的に放棄しないとAndroid Wearなど徒花に終わってしまうのである。

月曜日, 5月 11, 2015

理屈じゃないんです

世の中には頭でっかちな(頭でっかちな人の言うことを鵜呑みにする)人もいるので、論理的に説明のつくもの(要は数値化が容易なもの)を評価基準としているものが溢れている。エキスパートシステムなどはそれの最たるものだし決してそこで導き出される答えがいい加減だなどと言いたいわけではない。しかし、日常生活で何かを選択しなければいけない状況で人は常に論理的な判断を行っているかと言えばそんなことはない。一々そんなことを行っている人もいるのは間違いないが、そんな人は普通の社会生活は…

例えば昼ご飯にラーメンとカレーライスのどちらかを食べようとした場合あなたはどうするだろうか?普通の人は前の日にラーメンを食べていれば今日はカレーにしようと考える筈だが、ラーメン一途ならそもそもカレーを比較対象にはせずどこのラーメンにするかを考えるだろう。そんな時に一々今身体が必要としている栄養素が何であるかを総合判断してどちらの方が評価が高いかなどで食べるものを決めたりしない。もしそんなことをまじめに行ったらラーメンもカレーも失格でもっとバランスの良い食事をすることになるはずだ。

遺伝的な原因でもない限り成人病と診断されるような慢性疾患は大体好きなものばかりを食べ続けて招いたもの後天的なもの。それを防ぎたかったら好きなものばかりを食べるのを慎むべきなのである。

あまり食べ物にこだわっていると話があらぬ方向に行ってしまうので元に戻すが人の判断は往々にして好き嫌い(気持ちが良いか悪いか)が基準になっている。私は賢いからそんなことはないと答える人もいるかも知れないが、そんな人はこんな判断が出来る私って賢くって素敵と自己陶酔して気持ちよくなっているか、判断を下すための情報を集める思考する段階で気持ちが良くなるからだけなのだ。謎解きやクイズに夢中になるのは端的に難しいことを考えそれであっている時に得られる快感を求めて…

デジタル化してITに限らず製品が均一化してしまった時代に20世紀までのスペック至上主義を未だに負い続けている企業は多いがその結果は消費者には届いていない気がする。そんな中冷静に考えたら誰も買う筈の無いカタログスペック的には何ら飛び抜けたところのないAppleが暴利を貪っているのは理屈を完全に打ち負かしたエモーションで顧客の心を掴んでいるから。どんなに知能が進んでも人間が感情を持っている限り気持ちが良くなるものの魅力には勝てはしない。

結論:一番大事なのは理屈じゃなく情動なのである。

水曜日, 5月 06, 2015

自動運転のジレンマ

AppleやGoogleが自動車向けのシステムを用意しているからすぐにでも自動運転になるのではないのかと騒ぐ人がいるが、そう言う人はシステムや運転するユーザの心理を全く考えていないなと実感する今日この頃。真剣に考えたら問題山積みなのだが、そう言う人はレンジでチンすれば食べられる「サトーのご飯」なみに自動運転を考えているらしい(要は何も考えていないと言うこと)。

自動車メーカー各社はアイサイトなど事故を未然に防ぐ(被害を減らす)システムを出してきているが、これと自動運転はまるでレベルの違う話。電車に乗っている時に走行状態を全く気にせず(鉄以外は気にしないw)に目的地に連れていってくれるのと同様のシステムがあったら便利だよねの認識なのだ。そんなに運転をしたくないなら自動車など持たずタクシーにすれば良い私などはと思うのだが…

自動運転となれば運転を受け持つのはAIシステム。チェスや将棋で世界チャンピオンを破ったりしているのでまるで人間よりも賢明な判断を常にしてくれると勘違いしているようだが自己学習機能を備えていようがやっていることは最適解を選び出すだけ。人間が咄嗟の判断で回避するのと比べてどれだけ素早く対応出来るかは疑わしい限りだ。AIの方が優れているのは人間が判断時間を要するような問題の最適解を出すことであって、考える間もなく処理を行ってしまう反射レベルの反応などは到底不可能なのである。

ちょっと前に流行ったサンデル教授の「白熱教室」があったが、「車の前に突然人が飛び出してきて事故を防ぐためにハンドルを切ろうとした先には多くの子供が」と言った場合にAIは何を基準に判断をするかだ。人としての価値ならば飛び出してきた人の社会的な重要度(金額換算になるのだろう)となり、一人の大人と複数人の子供のどちらの方が金銭的な価値が高いかでどちらを轢くべきかを判断するだろう。もしもその人が大富豪なら回避されホームレスなら…また命の数が基準であれば大人一人が轢かれることになる。勿論二つを比べた場合の回避の可能性の高さを判断基準にするかも知れないが、それによって乗車中の人間の命に関わるとしたらより判断は複雑に…

そして、その結果起こった事象に対して自動運転の利便を享受していた者の道義的責任はどうなるのか。そのシステムを使った人間のせいなのか、そのアルゴリズムを組み込んだ人間のせいなのか…

結論:自動運転システムが可能になるには人と車、車同士が事故を起こすことがあり得ないようなインフラが全て整った後の世界の話。実験としてステアリングに全く手を触れずに操縦出来るかどうかなんてどうでも良い小さな話なのである。