金曜日, 7月 29, 2005

iPodに課金なんて、まだ言ってるの?

iPodに課金などと、未だに時代錯誤のことを言っている馬鹿な奴らがいる。iPodなどを著作権を侵すデバイスだと考えているのだ。日本では未だに音楽のダウンロード販売が始まっていない(やっているところはあるがあれは事業ではない)が、来週開始されるiTMSジャパン(iTunes Music Store)がスタートすれば権利が侵されるどころか、新たな著作権料を得るチャンスがやって来るのである。課金の理由が、MDに課金しておいて携帯プレイヤーに課金しないのは不公平だと言う論点なのだから呆れてものが言えない。もしその理屈が成り立つなら昨今のポータブルゲーム機や携帯電話は全て課金対象にしなければいけなくなる。CDのコピーが前提のMDとダウンロードデータを聴くことが目的の携帯ミュージックプレイヤーを一緒くたに括る(音楽を聴くという関連性)思考は前時代の遺物だと言っても過言ではない。英国ではiPodに対抗してVirgin Musicストアで対抗しようとしていたが失敗したVirginは最初のiPod携帯電話のキャリアのなろうとしている。世の中はそれくらいに大きく変わろうとしているのである。Appleに意地悪をしている時間があったら、いっそのことAppleにフリーハンドを与え、レコード会社にiTMSに参加するようにハッパを掛けて新たな飯の種を見つけ出す頭の柔らかさが必要なのである。それが出来ない組織ならば無くなってしまった方が良い。

金曜日, 7月 22, 2005

AppleはJavaに見切りを付けたのか

 あまり大きなネタではないのだが、長らく選択肢の一つとして存在していたCocoa-Javaはアプリケーションの開発環境として非推薦になった。もちろんWeb-Objectsの世界ではJavaはデフォルト(Cocoaでは作れない)であるが、万能の開発環境としてはObjective-Cしかないと言う状態になった。これは、Carbonに対しても言えることなのであるが、CarbonにせよCocoa-JavaにせよCocoa用のライブラリーが完成するまでのつなぎだったのである。

 結局Jobsがどう言おうが、Intelチップに変更した理由もCocoaだけでMacのアプリが作れる体制になることが前提だったのだ。QuickTime(Carbonのライブラリーしかなかった)のように過去の遺産の方が大きいライブラリーを置き換えるのに時間が必要だったのだ。といわけでJavaだってつなぎだったのかも知れない。WebアプリではJavaは有効であるがグラフィックを多用するアプリケーションの作成環境としては端から無理がある。そもそもAppleが考える世界のMainストリームを歩むような技術では無いと言うことなのだろう。

 というわけで、Mac(PowerPCでもIntelでも)で開発をする限りはレガシーなライブラリー(Objective-Cが一番歴史があったりするが)のことは忘れてハードの能力を最大限発揮させたいならCocoaを使えと言うのがアップルのご託宣なのである。

結論:JavaはMacでも動く存在であって、無くてもかまわない物だということだ。Javaをマスターする時間があったらObjective-Cをマスターした方がいいぞと言っているのである。

水曜日, 7月 20, 2005

iTunesはどこへ向かうのか

 長らく待たされていたiTunes Music Storeジャパンが正式に開始される見通しがたった。今のところエイベックスだけが正式に名乗りを上げているだけであるが、恐らく国内のほとんどが参加することになるであろう。価格などは発表されていないが150円を上限になるのではないだろうか。本家のiTMSは、私の予想通りミュージック・ビデオの発売を開始する。合わせてテレビ局各社との交渉も始まっている。これはパッケージとして販売コンテンツ(映画など)以外をiTMSに載せてくることを示唆している。つまりmovieではなくTVなのである。その辺りの違いを理解できない人々が世の中に多くいるがコレクションするための映像は世の中にいくらでもある(レンタルビデオがあるし、パッケージを買えば済む)。それをあえてネット上に載せてくる意味合いはほとんどない。

 オンデマンドが必要なコンテンツはTVのように使い捨てになってしまうメディアなのだ。それをデジタル化する作業はまさに作業でしかない。世の中のIT企業の経営者でそれを理解しているのは他でも無いJobsだけである。テレビ番組ををPC用映像にして配信しているポータルはたくさんあるが、iPodで見られるような形でサービスできるのはAppleを置いて他には無い。

 と言う訳でiPod Photoの次の機種はiPod TVとApple Media Centerになるのではないだろうか。Apple Media Centerは、MacがなくてもiPod TVにテレビ映像を送り込むことが出来るiTunesとQuickTimeをベースにしたマシーンである。DVDなどに焼くことが出来ない(テレビに映すかiPodに送る機能に特化した)コンパクトなマシーンで価格は500ドル以下といったところでどうだろう。

 今のところ噂さえ出ていないようだが、発表されると面白そうである。
iTunes Music Storeが遅れていたが日本だがテレビ局各社がテレビのコンテンツをオンライン配信しようとしている。ここは一挙にTVの配信サービスを開始してしまう党のはどうだろう。

金曜日, 7月 15, 2005

Macintosh伝説〜第九章〜

1993年−Sculley解任



Appleの混迷
血迷ったかと思えるほど、というよりも気違いじみている程のマシーンが販売された。Appleのショップの人間でさえ何がどう違うのかが解らないほどのMacが発表された。こんなことをしていて在庫が増えないはずはないのに、何の策もないままに違いの解らないマシーンを送り出してきた。こんな状態が1997年まで続いたのに潰れなかった所を見るとMacユーザは馬鹿なのかも知れないと思ってしまう。夢に掛けたMacユーザーに対するAppleの仕打ちは、正に恩を仇で返すと言えるものであった。当時のユーザーの口癖は、"Appleは嫌いだがMacintoshは好き"であったのは仕方のないことであった。

Newton登場!!
言ったは良いがいつまでも出なかったために妄想ばかりが頭の中で渦を巻いて過大な期待を抱いてしまったNewtonがついに登場した。約束されていた手書き文字認識(Rosettaというコード名であった)がいつまでたっても使い物にならなかったために、ロシア人の持ち込んだアプリケーションを利用して誤魔化さざるおえなかったのが、その後のアップルの迷走を示唆していたかも知れない。実際Newtonが出たは良いが、Macユーザーが望んだレベルには達していなかったためおもちゃでしかなかったのだ。出来ることが半分にも満たなかったPalmの方がバランスがとれていたのでPDAのトップの座をすぐに奪われてしまった。悲しいかなJobsによって引導を渡された最後のマシーンは完成度では文句無しであったが時代はPDAをもう必要とはしていないとJobsに判断された(そしてこれは正しい選択であった)。

Sculley解任
鳴り物入りでデビューしたNewtonは、先物買いの物好きが買った後にパタリとその売上を停止してしまった。開発に掛けた費用を回収することはどう見ても不可能であったため、人身御供が必要とされた。まさにいつか見た光景である。結局創立者であるJobsを追放したScullyにその白羽の矢が立った。その前にJobs追放に手を貸したジャン・ルイ・ガゼーも既にAppleにはいなかった。こうしてAppleの顔と呼べる人々がAppleを追い出され、ついに最悪の人選(マイケル・スピンドラーの会長兼CEO)という暴挙を行ってしまうのである。マイケル・スピンドラーはそれまでにアップルヨーロッパのマーケティングで成功を収めたと言う実績を持っていたが、ただのセールスマンであったため技術開発が主導であったAppleのような会社のトップになってはいけなかった人間だったのである。

Macユーザーは馬鹿
悲しいかな初代Macintoshに魅せられてしまった人々はその悪魔の囁きを忘れることが出来なかった。Macintoshとは仕事をこなすために使わなければいけないマシーンではなく、自分の感性を満足させるために選ぶ商品である。近所の買い物にしか使うことが無いので論理的に考えればアルトを買えば済むのに、どうしてもBMWが欲しいと考える人を馬鹿と呼ぶのならばMacユーザーはまさに馬鹿の見本である。しかしそこにあるテイストの違いが大事だと考える人にとってみれば、アルトで良いと考える人こそ何もわかっていない馬鹿だとMacユーザーは言うのである。これがWindowsユーザーとMacユーザーが歩み寄ることが出来ない壁の本質なのだ。ただもうひとつWindowsユーザーには変な連中がいる。アルトにFerrariのエンジンを積んで悦に入っているような奴らだ。本当に凄いマシーンが欲しいのならボアアップしたりする前にFerrariを買うことを考えたら如何なものだろう。

Rosetta
Appleの手書き認識ソフトに付けられていた開発コード名である。エジプトの象形文字の解読に役立った"Rosetta stone"にあやかって付けられたコード名であったが、名前負けしてしまったのか完成されることは無かった。良く考えてみれば手書き文字の認識と"Rosetta stone"には関連性が無いことに気付く(Rosetta stoneが貢献したのはローマ字とエジプト文字の対応関係による解読であって文字認識ではない)が、当時はそれに気付かなかった。そして2005年のWWDCで再びこの"rosetta"というコード名が復活した。PowerPC用にコンパイルしたバイナリーをリコンパイルすることなくIntelのCPUで走らせるためのエミュレーション技術である。もともと他所の会社で作られていたものであるが、その技術をAppleは正式に買い取ったようである。この辺りの目のつけ所の良さと柔軟性が今のAppleのスピードを生み出しているのである。

Palm
その前身は一般的には知られていないがNewtonである。NewtonにはAppleから商品化されたタイプ(Newton Mini)と、Big Newtonと呼ばれていたタブレットPC状のMac同様にフル機能を持ったNewton、そしてPocket Newtonと呼ばれた電子手帳タイプの3種類が開発されていた。機能の一番少なかったポケット・タイプは一番早く開発されたが、Appleが出すに相応しい物ではないとの取締役会の判断で開発チームは解散させられてしまった。そのため当時開発を主導していた技術者達がスピンアウトして作られた会社がPalmであった。

Macintosh伝説〜第八章〜

1992年−アップルの迷走



Windows3.1発売開始
MS-DOSにGUIアプリケーションを載せただけの代物に過ぎなかったとは言え、曲がりなりにも3.1上で動くアプリケーションがいくつか登場し、3.0と比べたら比較にならないほど安定度がましたOSの登場にPCユーザは飛びついた。見た目はかなりMacOSに近づいた(AppleはLook&Feelを侵害しているとしてMicrosoftやHPを訴えたが後に完全に敗訴してしまう)ため、中身も恐らく同じように動いていると誤解するPCユーザの馬鹿さ加減を許せなかったMacユーザが多かったが、不安定さではSystem7以下であることがせめてもの救いであった。

合併は画餅に帰す
1992年は最悪の時期ではなかったが、先行きに不安を感じていたアップルの首脳陣は合併を含めた提携先を探し求めていた。その相手として白羽の矢が立った企業には、IBM、AT&T、SUN、HPとなどがあったが、当時CEOのScullyやCOOのスピンドラーの合併後の自分たちの地位がどうなるかという思惑で結果的に全てご破算になってしまった。自分たちと会社を少しでも高く買わせたいという気持ちが強過ぎたのが全ての原因だったのだ。世の中そんなに欲張ってはいけないのである。

スタートレック
2005年のWWDCで次期システムはIntelのCPUに移行すると言う発表がなされた後では違和感が少ないかも知れないが、かつてスタートレックと言う開発コードでIntel版のMacOS(OSXではない)の開発プロジェクトがこっそりと行われていた。Finderなどの基本的な部分は完成しPC上で動作する段階まで進んだが、PowerPCの開発の目処が立った段階で開発は中止されてしまった。PowerPCがとん挫していたならば10年前にIntel版のMacが登場していたかも知れなかったのだ。

水曜日, 7月 13, 2005

Macintosh伝説〜第七章〜

1991年−Powerbook誕生!!



初代Powerbook登場
今でこそノートブックが当たり前の世の中であるが、ダイナブックの発案者であるアラン・ケイをアップル・フェローとして迎えていたアップルもただ手を拱いていたわけではなかったのだが、真のノートブックと呼べるパソコンを発売したのは東芝が最初だった(ダイナブックの名前さえ横取りされてしまったが、せめてもの救いはアラン・ケイがあれは自分の考えたダイナブックではないと言ってくれたことだけだろう)。Macintosh Portableという実験機(通常のMacよりも重かったのだから決して実用機ではない)は成功とは呼べなかったが、Powerbookはノートブックパソコンに一つの方向性を与えた点(トラックボールの採用とキーボード手前がパームレストになっていると言う現在のノートパソコンのスタンダードを作った)で画期的であった。これも当時Appleに認知心理学者のノーマンがアップル・フェローとして在籍していたからである。一気に3種類のマシーンをデビューさせAppleとしても久々のクリーンヒットを飛ばすことが出来た。

IBMとの提携
強気の発言を続けていたが次期OSの開発の目処が一向につかないAppleとMicrosoftに裏切られて(OS/2を共同開発していたのにいきなり、Windowsを出されてしまった)傷心のIBMがともに魅かれ合うなどと、どこの誰が想像していただろう。当時AppleではBlueと呼ばれるOS(後のSystem7.5と言われるSystem7の改良版)と、Pinkと呼ばれるOS(構想が余りにも大きくなり過ぎていつ完成するかが全く解らないSystem8)が同時に開発されていた。結果的にPinkはSystem8になることも出来ずにIBMと共同で立ち上げたタリジェントという会社に移行されたが、ここでも完成することが無かった。具体的なIBMとの提携は、PowerPCと呼ばれる新しいCPUの共同開発(Motorolaも加わる)と前述のPinkの開発、そしてマルチメデイア言語であったScript/Xの開発であった。結果的にはこの中で実際に物が出せたのはPowerPCだけだったのが、当時のAppleの暴走ぶりを如実に示していたのである。後にPinkを諦めCopelandという名前のOSを開発していたがこれさえも完成出来なかった。

Pink
開発ツールの世界ではオブジェクト指向は当たり前(OOPSと言う)であるが、OSその物がオブジェクト指向をいうのはあまりにも大胆である。どういうことかと言えば他のアプリケーションの機能をOSレベルで切り張りしてユーザ独自に使うことが出来るようになってしまうと言うのである。どのアプリケーションからでも印刷する時は同じドライバーを使うことが出来るのと同じようにしようとした訳である。これができれば、夢のようだが出来なかったので結果的にまさしく夢のようだった。この開発のために何人の人間が廃人になったのだろう。

金曜日, 7月 08, 2005

Macintosh伝説〜第六章〜

1990年−迫り来るWindows


Windows 3.0 発売開始
ご多分に漏れず、Windows3.0の出来は、大したことがなかった。比較すれば、その機能はSystem6.0と同等か、それ以下であったがそんなことはPCユーザーには解らない。PCのクローンで動くと言うその点が重要だったのである。少なくともDOSのコマンドを打たなくてもアプリが起動出来るということは画期的なことだったのである。 ここで、Appleが性根を入れてMacOSに力を注いでいれば、Windows95で逆襲されるようなことはなかったのだ。 SculleyがNewtonに注ぐ情熱の半分でも、Macを良くするために使ってもらえればこんなことにはならなかったはずである。

Macintosh Classic登場
Apple始まって依頼初めての1000ドルを切るマシーンの登場である。合わせてLC(ローコスト・カラー)も発表され、Appleの将来は順風満帆に見えた。1万ドルを越えるIIfxを出す余裕さえあったのだ。結果論になってしまうが、この時にClassicが全然売れなければ、Appleはもっと冷静に自分たちのポジションを確かめることが出来たのではないだろうか。何故ならClassicは機能的にみてもMacintosh Plus(3年前のマシーン)となんら変わりがなかった。まさに生産終了したPlusの筐体だけを変えたマシーンだったのだ。それでも価格が安かったので嘘のように売れたのである。

PCユーザーには解らない
Windowsユーザーから見ればGUIを使うシステムは子供だまし(コマンドが使えない馬鹿が使うもの)にしか見えなかったのは事実である。そもそもIntelのCPUのメモリ管理の制限でグラフィックスでOSをコントロ−ルするなど考えられなかったのだから仕方がない。せっかく覚えたおまじないが意味を無くしてしまうなど考えてはいけなかったのだ。