木曜日, 3月 31, 2005

Macは高い?

 以前と比べるとMacの価格は夢のように安くなったが、それでもPCのデスクトップと比べるとまだまだ高いと言う印象を持つのも確かである。しかしこれは本当に印象の問題であって事実ではないのではないかと最近感じることがあった。

 それは、社内でファイルサーバとして現在使っているマシーンでは力不足のため新しいサーバを購入するために見積りを取ってもらいたいとの連絡を受けたことに始まった。さっそくXserveの見積りをApplestoreで確認してみた。シングルCPUでHDDは1.2T、ハードウェアRAIDを使うと言う構成でたったの60万円台だった。これって安くないだろうか。Dellで同じような構成のLinuxのサーバを購入しようとしたらそんな容量のラックマウントサーバは無かった。今回の構成で考えているのはHDD3基で2基はあくまでもバックアップ用である。この容量になってしまったらHDDでミラーリングする方が合理的だ。

 それ以外にもある。実験のためにXEONがデュアルで載っているマシーンが手元に届いたが50万円以上らしい。この金額ならばPowerMac G5の最上位機種を買って、iBookをおまけに付けることが出来る。それにファンの音は比較にならないくらい静になる。もちろんWindows対応のアプリを実験するためなのでMacを代替えに使うことは出来ない訳だが、Windowsの方が安いと言うのはここでも崩れてしまう。PowerMacはあくまでもプロ用のマシーンのため比較対照はあくまでもフル機能のPCである。そうなるとMacの方がずっと安いのだ。

 コンシューマ用のマシンでも考えてみたが、iMacの比較対照になるPCは無い。何故ならG5に対応するCPUはXEONクラスだからである。Pentium4と比較するのはG4なのだ。仕方がないのでディスプレイサイズで比較しようとするとiMacよりも高い商品ばかりである。テレビチューナが付いていると言うかも知れないが、皆が必要な機能とは思えない。

結論:冷静に考えるとMacは全然高くないのである。安普請のPCと比較すること自体が間違いなのだ。

水曜日, 3月 30, 2005

Appleの失敗

 iPod景気に沸くAppleであるが、かつてはいつ死んでも仕方ない状態を続けていた。丁度10年ほど前Appleは正に瀕死の状態であり、CEOの交代は延命処理に過ぎなかった。何度も書いてきたことなのでちょっとくどくなるかも知れないが、そのあたりをもう一度考えてみたい。

 そもそものきっかけは20年前のMacintoshの発表にさかのぼる。社内の小さなプロジェクトに過ぎなかったMacintoshが、日の目を見たのはJobsがLisaグループのリーダーの地位を外されたことだった。GUIを持ち、マルチタスクが可能なLisaは非常にエレガントなマシーンであったが、高価格だったために普及することはなかった。その失敗の原因はJobsにあると判断した取締役会はJobsをLisaチームから切り離す決定を下した。ここで、重要な点は当時のAppleにおいて主力商品であったApple IIのアーキテクチャーを完全に否定したマシーンをJobsが作ったことだったのである。Jobsは常に前進することを求め自社の商品を平気で否定出来るビジョンを持っていたのだ。Lisaチームを外されたJobsは、今度は打倒Lisaを旗印にMacintoshグループを新マシーン開発のために組み直してしまう。Lisaよりもコンパクトで使い易く価格も安いマシーンを目指したのだ。1,500ドル位で売れるマシーンが目標であったが、スカーリーが販促に1億ドルも掛けることが分かり結局非常に高価なマシーンになってしまった。案の定すぐに売れ出すことはなかった。ここで取締役会は、Jobsから商品開発の権限を奪うと言う措置に出た。その結果JobsはAppleを去り、Appleが新しい商品を作り出す機会を失ってしまったのである。恐らく、JobsがAppleに留まっていればNeXTはAppleからデビューしていただろう。そう考えるとWindows95が発表された当時には、現在のMac OSXと同等の先進のOSを持ったマシーンを発表出来ていたのだ。取締役会の判断ミスのためにAppleは10年近く遠回りをしてしまったのである。

結論:破壊者を社内に飼うことが出来なかったことが、Appleの失敗の根本的な原因だったのである。これ、どこかの日本の家電メーカーにも当てはまるような気がするんだけどな。

木曜日, 3月 24, 2005

Macintosh伝説〜番外編〜

iPod人気によってAppleに対する認知はかつてないほど大きくなっているにも関わらず、現在Macintosh専門の雑誌は多くない。思い返してみればユーザの数からは信じられないくらいに多くの雑誌が発行されていた時代がかつてあったのである。その当時はNetで十分な情報を得られるような状態でなかったために、一月以上遅れた情報でも価値があったと言うことである。それと、現在はAppleが何ヶ月も前に情報をおおっぴらにするような体制にないため、記事の書きようがないと言うのも雑誌が少ない本当の原因なのかも知れない。さて今回はかつて出ていた雑誌についての思い出を語りたい。

《MacLife》御用系雑誌
Macの雑誌としては一番古くからあり、その厚みも最大であった。ページが少ない分、紙の厚みが厚く、なおかつ広告が一番多い雑誌だった(半分は広告ページだった)。それゆえの御用雑誌である。提灯記事をなくしてしまうと誌面が成り立たないのじゃないかと危惧したほどである。清く正しいMacユーザが読むべき雑誌だった。

《Mac Japan》 反体制雑誌
Macの雑誌であったにも関わらずAppleを批判する記事を載せることに躊躇しないところはさすが技評(技術評論社)出身と言える雑誌だった。Macの日本の価格から新製品やOSの罵詈雑言まで分け隔てなく載せたためアップル(当時はアップルジャパン)の逆鱗に触れスポンサーが全て降りる(当然アップルの圧力)と言う仕打ちまで受けてしまった。記事の内容はどこまでも濃く担当者のカラーが思いっきり出ていた個性的な雑誌であった。

《Mac World Japan》 老舗雑誌
日本での発行はかなり後半で、なおかつ長続きしなかったが本家アメリカの記事が翻訳されていたため海外でのMacの情報が掴めると言う良さがあった。正統派であったために面白おかしい(ふざけたと言う意味)が少なかったため読者の数は最後まで増えなかったようである。そのため正統派の雑誌ながら最後まで広告で半分と言うような状態にはなれなかった。

《日経MAC》 ビジネス系雑誌
言わずとしれた日経BP発行の雑誌。一部ユーザの間では日経が出したくらいだからMacの未来はバラ色だという雰囲気をかもし出してくれたが、実際にはAppleが坂道を下り降りている時期と重なったためわずか7年ほどで消え去ってしまった。記事の内容はbyteのMacに関係している部分が主体であったが、当時日本のユーザはMacをビジネスで使うことを端から諦めているような連中だったため、Appleの最悪期との相乗効果で短命に終わった。世間では日経Macが無くなった時にMacが無くなったと誤解されたほどであった。

《Mac User》 骨太系雑誌
Macの雑誌の中では、Mac Japanの次に硬派の雑誌であった。アップルにたて突く訳ではないが、内容の濃い記事を主力とした正統派であったが、内容が専門的過ぎたため一番短命だったかも知れない。Macを良く理解していない人間でないと内容を把握しきれない物だったためライトユーザーがおいそれと手を出せるものではなかった。

《MAC Fan》 一般系雑誌
Mac専用なのに一般系とは失礼かも知れないが、日本語文献も皆無の時期からどっぷりとMacに浸かっていた確信犯的Macユーザにとっては得るべき情報のない雑誌だったのは間違いない。創刊号から暫くはお付き合いさせて頂いたが真っ先に購読をやめてしまった。毒にも薬にもなら無い雑誌だったのである。

《Mac People》 素人系雑誌
何か大志を抱いてMacを買ったような人が読む雑誌ではなかった。原理主義者からみたら、お題目や念仏を唱えただけで幸せになると考えている奴らが見るような雑誌にしか見えなかったのだ。買う気も起きなかった。

このほかにも数多のMacの雑誌が創刊され無くなっていったが、現在残っているMac FanやMac Peopleは良い意味で普通の人を相手にしていた。こういう雑誌が生き延びたと言うことはある意味良かったのだと思う。Mac Japanだけが生き残っているようだったら、我々はオウムののように犯罪者になっていたかも知れない。

月曜日, 3月 21, 2005

Macintosh伝説〜第三章〜

1987年−Macintosh II誕生


Macintoch II 発売
メモリー8M、拡張スロット標準装備。68020プロセッサを搭載した初めてのパソコンがここに誕生。グラフィックカードを拡張スロット(NUBUS)にさして使うため、マルチディスプレイが可能になる。同時に拡張スロットを持ったMacintosh SE も発表される。これによって、Jobs の哲学が否定され、代わりにサードパーティも参加できる拡張性を手に入れる事が出来た。

HyperCard 登場
HyperCard が使いたいばかりに、Macintosh に手を出してしまい道を誤った人が多かったはずである。その根本に流れるハイパーテキストとハイパーリンクの考えは、ウェッブの標準言語となっているhtml の形で今も残っている。開発者であったビル・アトキンソンはHyperCard をMacintosh にバンドルしないのならばApple 辞めると迫ってバンドルさせたといういわく付きの開発環境だった。電子工学を勉強した事がない人でもプログラムが作れると言う画期的なものであった。ちなみに、アトキンソンはMacintosh のグラフィックの要であるQuickDraw を開発したプログラマーである。

道を誤った人
私がMacintosh ユーザーになった頃、日本語が通るアプリケーションは、EGWordとEXCELしか無かった。それ以外は日本語版のまともなソフトなんてどこにも存在しなかったのだ。初めて手に入れたハイパーカードは英語版。日本語の解説書も何も世の中に無いのだからこの世の春を謳歌していたPC98ユーザーや一太郎に対する憎しみが深くなってしまったのも仕方がなかったと言えるかもしれない。虐げられたその結果Macintoshユーザーは選民思想を持ってしまったのである。私がユーザーになった頃はまだユーザー数が1万にも満たなかったことを今でも忘れはしない。ちなみに、日本のMacユーザーが10万人に達したのはMacintosh Classicが発表されてからだった。それは1990年の事である。私はClassic以降のユーザを決して伝道師とは認めたくない。こんなことを言うとMacはやっぱりカルト集団だと考える人が多いだろうが、金も命も取らないのだから許して欲しいと思う。

金曜日, 3月 18, 2005

Macintosh伝説〜第二章〜

1986年−Macintosh Plus誕生


Macintosh Plus発売
メモリーがSIMになる。SCSIも標準となりハードディスクの増設も楽になる。しかし、この当時20Mのハードディスクを付け、メモリーを4Mにすることが、いかに大変であったかは、買った本人以外には解らないであろう。下取りが可能な、小型車の方が安かったことは間違いない。漢字Talk搭載、これで単漢字変換ながら日本語が使えるようになる。Macintoshの開発環境は、やっとMacintoshになる。

Windows発売
発表から3年の歳月をかけて発売されたWindowsは、とんでもない しろものだった。EXCELの作成を人質*1にMacのGUIのコードを全てライセンスされていたのに出来たものが、すごかったので バージョン2になるまでWindowsには対応アプリさえなかった。

人質*1
当時、対応アプリの少なかったMacintoshは、強力なアプリとなるEXCELは絶対に必要という弱味を持っていた。そこにつけこんで、どうしても良いウィンドウシステムを作り出せなかったマイクロソフトは、EXCELを作ることを条件にMacintoshのルック&フィールにからむ全てのソースコードを提供させたのだ。この時の絡みで、未だにマイクロソフトは、Appleにルック&フィールに対するライセンス料を払っている。
また、逆にAppleはソースを提供する交換条件として、Windows版のEXCELを2年間作らないという約束を取り付けた。そのためWindows3.1が出るまで常にMacintosh版のEXCELの方がバージョンが進んでいたのだ。
もっとも、当時のWindowsには、EXCELを動かすような力はなかった。いかんせん、セグメントが64KのIntelの石*2では出来ない芸当だったのだ。内部32ビットの68000をAppleが選択した一番の理由が正にそれだったのである。

Intelの石*2
所詮は電卓用に開発された4004のアーキテクチュアーを引きずった石。80486が出るまで、メモリーをダイレクトにアドレスすることさえ出来なかった。

木曜日, 3月 17, 2005

Macintosh伝説〜第一章〜

1983年−Lisa誕生


Lisa 発売
メモリー1M、ハードディスク標準装備。
パソコンとして初めて高級言語PASCALを使用する。
9,950ドルという価格が無かったらもっと売れたのに。
日本ではその倍はしてたので、買えるわけが無い。

Windows発表
発表はされたが、ものは出る見込みは全く無かった。

1984年−Macintosh誕生



Macintosh 128K発売
Macintoshにはメモリーも、SCSIも、開発環境もありませんでした。
いかんせん、メモリーが少なすぎ。このメモリーで動くアプリを作れる天才はさすがのアメリカでも少なかった。
開発ツールもMacintoshには無かった。もしLisaが無かったら、何も出来なかったのである。

Macintosh 512K発売
Macintoshのメモリーはマザーボードに直付け。増設は出来ませんでした。
Lisaがフロッピーを3.5インチに変えて、Macintosh XLとなる。

1985年−Macintosh迷走


DynaMac発売
Macintoshのマザーボードに漢字ROMをハンダ付け。徒花のような
トンでもないマシーンが誕生。さすが、キヤノンと褒めていいのやら、けなしていいのやら。先見の明のないキヤノン。
Appleの戦略変更であっと言う間に消えてなくなってしまった。

1995年がターニング・ポイントだった

 1995年は、世の中にとって大きなターニング・ポイントであったことに気付いた。Microsoftにとっては始めての本当の意味でのWindowsが発表された年であり、アップルの地獄がここからスタートした。映画の世界ではPixarのトイストーリーがハローウィンの時期に公開されアニメの世界を変えた。SONYは出井氏が社長となり普通の会社へと進路を変更して行った。

 Microsoftにとって1995年は歴史的に最良の年だった。たとえ、社員を導入してカウントダウンを盛り上げたとしても世の中を変えたことは間違いない。完全に手詰まり状態(支離滅裂だっただけか)のAppleに死刑宣告を言い渡したことは間違いない。

 Appleにとって1995年は歴史的に最悪の年だった。あれだけ馬鹿にしていたWindowsがSystem87と呼べるレベルで商品化されたのだ。MacユーザはWindows 95はMacの猿真似に過ぎないと言ってくれたが、System 8の開発は空中分解していて画期的なOSが出てくる可能性は全くなかった。この時にAppleは一度脳死したのである。

 Pixarにとって1995年は最良の年のスタートであった。それまで金食い虫(何も利益を生み出さない会社に10年間の間に5000万ドル以上をつぎ込んだ)でJobsを悩ませていた会社が映画業界をあっと言わせたのだ。アイズナーなどは一本の成功など何の実績にもならないと宣っていたが、その後の作品は全て前作を上回り(インクレディブルは違う)、アカデミーの長編アニメ作品賞を2度も受賞した(6作品で2度はとんでもない打率である)。株式も公開され個人オーナーであったJobsはまた大富豪に返り咲くことが出来た(Pixarの株だけで25億ドル位になるかも知れない)。

 SONYにとって1995年は変革の年であった。創業者がSONYから去り、物作りから物売りへと路線を変えていった。ゲーム機以外にヒット商品がなくなり、金融や保険が収益を上げる組織へと官僚化が進んで行った。それまで自社開発していたNEWSやHitBitという失敗からPCから手を引いていたが、Windows路線でのPC復活と言う方針が決められたのもWindows95の成功が原因だったのである。

 死んだはずのAppleは最新の遺伝子工学によって完全に別物になって復活し、Pixarは映画業界にとってなくてはならない存在(まさに21世紀のディズニーである)となった。SONYはダメ会社のらく印を押され、大きくなり過ぎたMicrosoftはまともなOSを出すことさえ出来なくなりまるで10年前のApple同然である。Appleが完全に死んだ時に馬鹿なユーザはその死を認めず、それが復活へと繋がったが、果たしてWindowsにそれだけ信仰を持っているユーザがいるのだろうか。

結論:10年と言う年月は短いようで長いものである。

金曜日, 3月 11, 2005

BDとApple

 BD(ブルーレイディスク)陣営にAppleが加わったことで各メディアは追い風になると発言しているが、それはちょっと違うような気がする。Appleは次期PowerMacでHDをサポートしたDVDを搭載してくる可能性があるが、それがそのままBDに勢いを付けるとは限らない。そんなに買いかぶってはいけないのだ。所詮Appleは小さなパソコン会社に過ぎない(本当にそう思っているかはご想像にお任せする)。より重要なのは松下がどこと組んだかなのである。松下は今回はBD陣営に最初から参加しているので、ここでAppleが加わるかどうかは大した問題ではない。もちろん、松下が主導してもパソコンの世界に影響を与えられないことはDVD-RAMが広がらなかったことで実証済みだが、今回の媒体はパソコン用ではない。つまり、SONYが開発したことよりも、松下が参加したことに意味があるのだ。今年のMacEXPOでSONYのBDが大きく取り上げられたが、昨年の夏には松下のHD VideoとFinal Cut Pro HDが大きく取り上げられていた。当時、SONYからはHDをフルサポートするビデオが出ていなかったことが原因(BDに焼くべきデータを作るビデオがSONYになかった)だった。だから、別にSONYに肩入れした訳ではないのだ。出井さんが辞めるから、参加を正式に表明したって...
それは、あるかもしれないな。

木曜日, 3月 10, 2005

Macにまつわる色々な話

 アメリカでは、Macの噂サイトがAppleに訴えられたり大騒ぎであるが、その中の一つから「mini」ノートを開発していると言うものである。これは、予てから噂されていた物であるが、もともとはPowerbookが今以上に薄型・軽量化されるといった物であったが、G5の発熱を考えると矛盾していた。つまりは、G4版のスリムノートをAppleが出そうとしているということだ。手書き認識の噂もあるので、薄いタブレットタイプ(HDDはiPodで使わなくなった40Gが怪しい)で厚みは1.5センチ、大きさは12インチワイドだと非常に面白いと思う。

 もう一つは、Linuxの立役者L・トーバルズは現在PowerMac G5でLinuxの開発を行っていると言うものである。流石にMac OSXを使っている訳ではないとのことであるが、さぞかしIntelが入っていないマシーンは快適なことだろう。ビル・ゲイツはiPodを使っていないとインタビューに答えているがMacユーザであることは有名なのでiPodも使っていると睨んでいる。

 それと、VirginがiPod対抗で開発していたデジタルプレイヤーから脱落したと言うこと。いつも言っていることに重なるが、まもなくVIAIO Pocketは生産終了するだろうし、他のメーカー(東芝など)も遅かれ早かれそうせざるおえない。東芝などはHDDを黙って売っていれば良かったのにGIGA BEATを出したりするからiPod miniのHDDはSeagateやIBMに変わってしまった。配給元であるディズニーのCEOを罵倒出来る人がCEOをやっているAppleには決して刃向かってはいけないのだ。

水曜日, 3月 09, 2005

Jobsの現実歪曲フィールド

 Steve Jobs の現実歪曲フィールドに関する話がWebに載っていたので今日はその当たりのいくつかを紹介したいと思う。

 1997年、暫定CEOだったJobsがMicrosoftのビルゲイツとの提携の交渉にあたっていた。結果的に1億5000万ドルの議決権を持たない株の購入とOfficeアプリケーションの開発継続を取り付けることが出来たのであるが、その時のJobsの口説き文句が「二人が手を結べばPCの100パーセントを手に入れられる」だった。確かに事実はそうなのであるが、まるで自分たちが95%のシェアを持っているようにさえ聞こえる。これが、Jobs流の現実歪曲なのである。結局、Jobsに見詰められたゲイツはJobsの現実を受け入れたのである。

 1980年、ビジネスとしてAppleが成功するには優秀な経営者を必要としていた。Jobsは、当時ペプシコーラのCEOだったジョン・スカーリーを「砂糖水を売って一生を終わるのか」と口説いた。確かにコーラは砂糖水の一種かも知れないが、当時アメリカではペプシがコカコーラをシェアで破り、その立役者がスカーリーだったのだ。片やAppleはまだ株式を公開してもいないへぼな会社。他の人であったらば絶対ほざけない類いの言葉であったのだ。結局、Jobsに見詰められたスカーリーはJobsの現実を受け入れたのである。

 1985年、海のものとも山のものとも知れないNeXTコンピュータに続々と資金が集まった。確かにAppleの中でもとびきり優秀な連中を集めていたので何かを起こす可能性はあったが、まだ何も商品を開発していない会社(1988年にマシーンが発表されたが、まともに動くようになるまでそれから何年も掛かったのである)の月産10万台の生産が可能な製造工場を見せて(製造中止までに総数10万台を販売さえしていない)、ロス・ペローから総額1億ドル、キヤノンから2億ドルの金を巻き上げたのである。Jobsにかかればフル稼働している姿が目の前に現れてしまうのだ。結局、Jobsに見詰められたロス・ペローはJobsの現実を受け入れたのである。

 1997年、いつ潰れてもおかしくない(あることさえ忘れられていた)NeXTが4億ドルでAppleに買収された。新しいOSを必要としていたAppleは、交渉相手としてMicrosoftやBeなどが上がっていたがJobsにあったアメリオは迷うことなくNeXTをパートナーに選んだのである。結果的にはこれが正解であったことは確かであるがその時には誰もそう思わなかったのだ。恐らくAppleのハードとNeXTのOSが揃えば向かうところ敵無しだと囁かれたのだろう。結局、Jobsに見詰められたアメリオはJobsの現実を受け入れたのである。

火曜日, 3月 08, 2005

出井さんが辞めた本当の理由

 これは、非常に穿った見方であるが出井さんがSONYを辞めざるおえなくなったのはAppleとの提携を蹴ったことことが原因ではないだろうか。昨年、アメリカにおいてSteve Jobsとのトップ会談が行われたが最終的に前向きな話はなく終わってしまった。恐らく、出井さんはAppleを売らないかと言うような馬鹿な話をしたのだろう。SONYにはAppleを自分たちよりも下だと思うような傲慢さがある(それが原因でやることなすこと失敗していたのに)。確かに企業規模としてはそうかも知れないが、メディア界に与える影響はJobsと出井さんでは比較にならない。あの、ディズニーのマイケル・アイズナーに対して”映画を知らない奴だ”と平気で言えるJobsをコントロールしようなんて百年早いのである。

 さて、出井さんがいなくなることが決まったSONYは矢継ぎ早に色々なことを始めようとしている。個人的意見としてPSPとiTunesの連携をしなければいけないとか、VAIO PocktやネットワークWalkmanはやめてPSP一本に絞った方が良いと発言してきたが強ちありえない状況でなくなってきた。というわけで、来年辺りには出井さんがCEOを追われたのはAppleと喧嘩すると言う戦略の失敗が原因だったなどと言われているかも知れない。

結論:マイケル・アイズナーは今期は首が繋がったが、今期ポカをやれば出井さんのように途中退場になるだろう。要するにJobsと喧嘩したらダメだと言うことである。

SONYは変われるか

 昨日はSONYが変ると書いたが、久多良木を外したところを見るとまだ出井氏が院政を敷こうとしているような気がしないでもない。実績を上げられなかったのだから、きれいに身を引いてもらいたいものだ。取締役を外れるとはいえ久多良木はグループ役員としてゲーム部門を統括するのでいずれ復活してくるのだろうが、「新陣営は私と安藤さんで考えた」という出井の最後っ屁が今回の人事なのであろう。この辺は、純粋なアメリカの会社との違いなのだろう。Appleでクーデターが起きた時には、アメリオだけでなくそれまで裏で操っていたマークーラなどの取締役さえ一斉に解任されボードメンバーが一気に入れ替わってしまった。それを、日本の企業であるSONYに望むことはやはり無理だったのだろう。個人的な意見だけれども中谷巌は、社外取締役から外したらどうだろう。あいつは出井以下だと思うんだけど。

結論:詰め腹は切ったけれども久多良木を巻き添えにしたところをみると、SONYも本質は日本の企業なのだと実感した。

月曜日, 3月 07, 2005

SONYは本気である

 前回のSONYネタで、SONYは方向転換に真剣に取り組み始めたとコメントさせて頂いたがその通りになるようである。私に一方的に諸悪の根源と罵倒され続けた出井氏がついに退任することになった。同時にネットワークウォークマン発表の時に、上下逆さに持って登場したお茶目な安藤国威さんの退任も決まった。これで、少なくともハードウェアに理解のない人達(新製品の上下が判らないなんて、発表までウォークマンに触ってなかったのが何よりの証拠である)がお辞めになって技術者にとって良い会社に一歩近づくことだろう。

 PS2が上手く行ったためにSONYは全てを誤ってしまった(PS2は出井さん達の手柄では無かったんだから)。ここに来て本当に膿を出し切れるならばSONYは良くなって行く。Jobsが戻った後のAppleのように。

結論:今後はAppleとSONYの提携など、面白い話が出てくる可能性が非常に高くなってきた。大いに期待である。久多良木さんまで退陣と言うことは、完全なニッポン外しかな。

火曜日, 3月 01, 2005

iPodはベースアイテムだ

iPodは単体でも十分魅力的なツールだが、その機能は非常にベーシックなものに限定されている。録音が出来ないし、ラジオも聴けず、動画を見ることが出来ないし、ケースもオプションである。それに比べ、韓国製の商品は至れり尽くせりだ。FMは聴けるし、録音も出来るのだ。しかし、それがいけないのだ。その戦略は、自社だけで閉じてしまう囲い込みである。それに比べ、Appleは非常にオープンに見える。最初のiPodが売り出された時に、iPodにない機能を追加するモジュールがサードパーティーから同時に発売された。これは、明らかにAppleらしからぬ戦略であった。こうして、iPodの周辺機器と言う新しいマーケットを同時に創り出すことに成功した。

それだけではなく、iPodが売れたことによってヘッドフォンが爆発的に売れている。iPodを使い始めると付属するイヤーフォンがどうしようもないと言う訳ではない(最高とは言えないが)のにその音に飽き足らず、もっと良いヘッドフォンが欲しくなるのだ。BOSEやSHUREといった往年のオーディオファンが垂涎のメーカーのヘッドフォンが異常な勢いで売れているのもiPodの影響である。物によってはiPodよりも高い商品なのに、それが売れると言うのは本来はありえない現象である。これは、iPodが単なる流行りではなく一つの新しいメディアとして地位を得たと言うことだろう。

結論:iPodが売れたのは、それ自体が閉じた商品ではなかく(周辺アクセサリーは信じられない位多くなっている)、一人一人が自分だけのiPodにする道を残したことによるだろう。内部のソフトウェアはクローズなのに、オープンに見える。これが、Appleの新しい戦略なのである。

Clieの終焉が意味するもの

つくづく先見の明がないと私に罵倒され続けたSONYがここに来て、方向転換を開始した。1998年の段階で未来は無いとJobsに引導を渡されたPDA(Newton)に2000年になってClieで参画したSONYがついに撤退を決めた。Jobsいわく「PDAに投資するくらいならば携帯電話に投資する方が良い。今迄に一度も主力になったことは無いし、これからもそうなることは絶対に無い」であった。まさにその通りの結果としか言えないだろう。確かに当時のNewtonは、PDAの中では負け組だったかもしれない(機能は高いが価格も高かった)。しかし、Newtonをやめた本当の理由はそんなところには無かった。何故ならば、当時他のPDAでは真似の出来ないレベルのNewtonが発表され、実際に今まで以上に売れ始めたため分社化しようと言うのがAppleの経営陣の判断だった。Jobsが暫定CEOになっていなければNewtonを辞めることは無かっただろうし、PalmやPocketPCと互角に闘うことが出来たであろう。しかし、今の状況を見れば、Jobsの判断は正しかった。資源を割くほどの余裕がなかったのが本当のところかも知れないがあの時の決断は、iPodを開発させたことと同じ重さを持っていたのである。SONYはClieについで、PSXの製造も中止した。恐らくVAIO Pocketも秋までには無くなるだろうし、そうしなければいけない。ここに来て、SONYは本来の力を出すための方向転換に真剣に取り組み出したようである。

結論:SONYは、Appleよりも10年位遅れたビジョンを持った経営者によって運営されてきたために迷走を続けてきたが、ここに来て一気に膿を出し始めた。世界のSONYの復活は以外に早いかも知れない。こうなると、Appleもうかうかしていられない。